‘最近のニュース(感想)’ カテゴリーのアーカイブ

SPという人たち

2009 年 2 月 9 日 月曜日

 先日、職場に要人が来たために、初めてSPという人たちに接する機会があった。いろいろあって、合計で5名のSPが来たのだけれど、想像にたがわず皆がっしりした体つきで、背丈も大きい。ただ意外だったのは、若い人がいなかったこと。一番若い人でも40歳手前くらいか。体力の落ちる曲線と経験が補う曲線では経験の方が重視される仕事なのかもしれない。

 それからもっと驚いたことは、物腰の柔らかさと応対の丁寧さ。確かにいかつい顔をしているのだが、来訪する要人が今どこそこまで来ているとか、建物の入口の誘導係の私にはきちんと教えてくれたし、当初来る予定だったある現職大臣が来られなくなって彼らが引き上げることになった時も、「○○大臣が来られなくて残念でした、でもまた来ることがあるかもしれません。その時には私が伺うかもしれませんので、よろしくお願いします」と言って去って行った。

 いやースマートで驚いた。SPという人たちは、自分たちは周りの協力があってはじめて確実に要人警護ができるんだ、ということをよくわかっている人たちなのでしょうね。

人を「削減する」と表現することそのものが非人間的です

2009 年 1 月 27 日 火曜日

 とうとう、2万人近くの社員を抱えるにもかかわらず、その約半数を削減する会社が現れた。この会社がどうなのかは知らないが、内部留保だって相当あるだろうに、経営危機だ、人員削減って叫ぶ今の企業群はどういうモラルでもって経営をしているのだろう。そんな会社がこれまで存続を許されてきたこと自体がある意味では信じられないのだが、消費者や社会の対し方が甘ちゃんだったということだろうか? しかし、もうこうなった以上、10年20年のスパンで、人々は企業経営者の甘言を信じなくなるだろう。

犯人もメディアも許せない

2009 年 1 月 20 日 火曜日

 もう消費しつくしたということなのか? 門の前に記者、レポーターはいなくなり、記事も出なくなった。新聞もテレビももう報じない。まだ命を絶たれてから1週間にしかならないのに。いったいあの狂想曲は何のため? 誰のためだったのだろう? 人の死をもてあそぶだけもてあそんで、あとは知らぬふりか。成仏できない教授を悼む。犯人だけでなく、メディアも本当に許せない。

くだらない噂話のネタばかり提供しおって

2009 年 1 月 17 日 土曜日

 この10年くらいの内に世相が大きく変わってきて、今までならありえなかった事件事故が起きるようになってはいたが、これまでほとんど舞台になって来なかった大学で殺人事件が起きたことに、何か堰が切られたような怖れを抱いているのは僕だけだろうか。

 大学を舞台にした殺人事件では十数年に、筑波大学で「悪魔の詩」事件があった。しかしその後は僕の記憶ではなかったはずだ。筑波事件当時から比べると、情報の伝達は何十倍にも速くなり、(質の良いものもだが残念ながら悪いものについても)情報が簡単に手に入るようになった。にもかかわらず、大学でだけは長らくこの種の事件が発生しなかったことに、僕は、ささやかな社会の健全性を見出すことができた。キャンパスの内をメタメタに破壊することはわけのないことだけれども、高等教育の現場としてのある種の気高さや、誰でもキャンパスに受け入れるオープンな雰囲気に対して、社会がそれなりに尊敬を払っているのだろうと思っていた。

 しかし、今回の事件を受けて、そのあたりのギリギリのバランスが崩壊してしまったのじゃないか、という怖さを、僕は心の底から感じている。

 ニュース報道が、原因はなにか、犯人はどこへ消えたか、といった話しかしないのは一体どういうわけだろう。そんなことは遺族と、現場となった大学と、警察と、犯人だけが考えればいいことだ。くだらない噂話のネタばかり提供しおって、今回ほど、ニュースメディアが醜悪に見えたことはない。

亡くなった教授のために

2009 年 1 月 15 日 木曜日

 大学はいろいろな思想、信条、背景を持った人が自由に教育・研究に参加できるオープンな環境だから大学として成立している。オープンなところを悪用して殺人事件を起こすということのはルール違反でしょう。

 人を恨むことはあるでしょう、組織を憎むこともあるでしょう、社会を妬むこともあるでしょう。人間だから。でも、どうあっても後ろから刺すなんざぁ卑怯だと思う。

 もう逃げていないで自首しませんか。

 自分の心の内に矜持、プライド、ルールを持っていない人って哀れだと思う。犯人は犯人なりのルールがあるのかもしれないけれど、誰にも尊敬されないルールじゃあ持っていても仕方がない。

 大量消費社会の中で、一人の命が消費されていく。たぶん、この事件もあと2,3日もすれば誰も振り返らなくなる。そういう酷薄な社会が僕らの望む社会なのだろうか? 意思に反して断ち切られた人生をもてあそんじゃいけないと思う。

にわか陰謀論者、にわか愛国者

2009 年 1 月 7 日 水曜日

 今日の日経新聞夕刊の一面は「39国立病院が債務超過-07年度赤字は全体の1/3」というものでした。国立病院も独法化されて毎年運営費交付金が1%ずつ削減されているんですね。知りませんでした。 

 今日、会社で聞いてきた話では、同じように独法化された国立大学(の某東京〇〇大学)では、やはり運営費交付金が削減され成果主義?が進められていく中で、一部のスター教授(おそらくは外から研究費を取って来れる研究分野の、成果を出している教授?)が専制的に振舞って、もうほとんどアカデミックな場ではなくなってきているのだとか。

 こんなことやっていて本当に国力が上がるのか? こういう風潮が病院や大学にまで入り込むというのは、日本の国情を痛めつけておいて後でうまい汁を吸いたい、某……国の差し金だったりしないのだろうか?

馬鹿で救いようのない生き物

2009 年 1 月 6 日 火曜日

 このとても拙いブログを始めたもともとのきっかけは、イラク戦争の際に日本が多国籍軍に加担することに反対するためだったのだが、あまりにも戦争が日常化しすぎて、しかも遠い国のお話過ぎて、何もコメントのしようがなくなってしまった。 

 今もイスラエルとパレスチナ(ハマス)とのドンパチがあり、アフガニスタン、スリランカ、ザイール、ソマリア、たぶんその他もっともっとたくさんの国で、民間人が死傷している。撲滅する側はテロリストを撲滅するのだと言いつつ、テロリストがもたらすより少ない民間人被害のうちに攻撃を完了した(成功させた)という話は聞いたことがない。人の命は1名でも貴重だが、もし仮に10人の被害が出てもそれで100人が助かるなら仕方がない、という天秤を用いるとしても、敵方の民間人被害も含めれば必ずや100人をはるかに超える死者を出し、そもそもやらなかったほうが良かったということになる。それなのに毎回戦争をする人間は馬鹿で救いようがない生物だ。

乾杯と万歳

2009 年 1 月 5 日 月曜日

 今日は仕事始めで、新年祝賀式なるものがあった。トップの話を伺い、そのあとにお決まりの乾杯。しばらく歓談の後、中締めで万歳三唱。

 おい一寸待て、万歳三唱をしつつ、非常に違和感を感じる。素直に手を上げたくないのだ。会社の繁栄と社員の健康を祈念している点では乾杯も万歳も変わりがないのだが……。

 万歳は動作が大きいだけに強制的にやらされている感があり、心からそう思わないと気持ちよくはできないものなのだろう。そして僕は気持良くはできなかった。小悪党が悪事がうまくいって乾杯するのと違い、万歳は権力が臣民に上下をわきまえさせるためにやっているような、そんなものだろうか。

今年の課題

2009 年 1 月 1 日 木曜日

 2009年、明けましておめでとうございます。昨年は本当に話題が暗かった。

 年越しを家なし職なしで過ごさざるを得なかった人々のニュースを見ると本当にこの世の中何とかならんもんかい、と思います。新聞では「いのちの電話」の相談員が足りず、24時間の電話相談サービスが困難になってきているという話もありました。ニーズは増えている筈ですし、相談員が必要であることは誰にでもわかることですが、自分がかかわろうというには心の余裕も物理的余裕も無くなっているのでしょう。うちの近所では最近、有機野菜などの販売店が閉店しました。そのことを聞いた時には、真面目に志高くやっている人が報われない社会って一体何だと本当に嫌な気持ちになったものです。

 志や気概を効率化、目に見える成果(数値)といったものが押しつぶそうとしています。これはつまり個人を得体のしれない大きなものがつぶしにかかっているということなのでしょう。これだけ突き回される時代だからこそ、同じ尺度で勝負をしない生き方を考えないといけないのでしょうね。今年はそれが私の課題です。

12人の怒れる男

2008 年 12 月 30 日 火曜日

 先日は、ニキータ・ミハルコフ版の『12人の怒れる男』を見てきました。シドニー・ルメット、ヘンリー・フォンダ版に引けを取らない素晴らしい出来。チェチェン出身の若者が(たぶんモスクワで)養父のロシア人元将校を殺害したという設定。ルメット版を踏襲しつつも、展開にさらに一ひねりがあります。そのひねり自体がロシアの絶望的な社会状況を表していて、これが昨年の作品であるということに驚かされました。